げーむの跡

襟足の行方

(仮)をつけたままにするか否か

よくまあつぶやき達を覗いてますと(のぞいてんのかよ)(ええ覗いてるばかりですが)ちょっコレ感想に困るー時間かかるー刺さるー・・・なんてのがお目かけするに主の流れというように感じておりますが。ちげーよなんだよそれどんな僻地ツイートだよ等々のご意見おありのかたは各自の自由にお願いすることとしまして。


先週の怒り新党をBGMにしながら書いておりますゆえちょっとその気も増しているとも想っていただきたい。そのような「感想に困る」という感情そのものがイコール、受け止めるものとして認めにくい、だけども認めざるをえないことくらいの表現になっているからだろうなぁと、本文も読まぬうちから内容推測させていただきました。特段、各種催事の当たり前にある(ともはや思われても仕方ない空気を帯びてしまっている)ところ。なぞ、でしょうか。特化するからこその耀き、と日々生活への常在化による中毒性、このふたつの相反する条件を共に満たす満たし続けるにはバランスの流動が必須なのは言わずもがな。それを千差万別になってきたファンの幾層にも響かせることを主たる目的としてきたことからの脱却。簡単ですよねぇ・・文字にする、だけ、なら(笑)。当り前とか常識とか健全とかいう単語が苦手な自分でも、夏にはそわそわするし予定も入れにくいし次こういう催しがあれば・・と妄想に時間を厭わないところもあります。ちなみに最近欧州旅行を持ちかけられて気もそぞろだったのでいやいやそういうのは身も落ち着いた頃にハニーな人とゆっくりいくしと冗談半分答えたら「なんか昭和の人みたいなこというんだね」と返されましたけども。さて。ただただ、ある種嬉々と、特に「最大公約数」なんて単語を使いだしていたひとが、もうそういう階段ではないと認めて言い放ったことには意味を感じたいです。当たり前からの脱却。だからこそ普通であることの大事さ。そしてこういうことを荒野出勤中に発言するじたん様も愛おしいし、もし荒野という役を演じて離れていく人がいるなら・・・ということへの表現が秀逸すぎて、そろそろそういう感情のときに担当冥利とデカデカと記した書を掲げるためにばくざん先生*1クラスの筆をネットの世界で探しておこうと想います。ちなみに最近のじたんの放った表現で唸った一番は「おおの先生の作品をみたいという手法は、猫がみたいと言って女子の家に上がる男と一緒」という旨の文言です。冷静と情熱のあいだというか、知性と益荒男のミクスチャーである最たるがその人・・・!などと勝手に想いはせれるうちはまだまだその尻緒を眺めていきたいと思います。
あと、グループの総意ではない、と前置きをしてし続けているオールメンにはオール尊敬です。親しき仲にそれだけの儀礼を踏み続けれるから息は消えないんだろうなあと思います。安心男子!かっけーよ!あらっさん!!!うん知ってる。

*1:知らないお子さんはお父さんお母さんかグーぐるさんに聞いてみて☆